※夢前黎の経歴等については、こちらの記事をご覧ください。
→自己紹介・サイト情報
→人一倍臆病な僕が、自分の本心と向き合いマルチクリエイターを目指すようになるまでの話
→「自分を愛していい」という話
→【実録! 退職物語】時系列順シリーズまとめ(目次)
最近思うのが、自分はつまらない人間だなぁってことです。
何というか、「情熱」とか「欲」というようなものが足りないと思うんです。きらきらしてないんです。
それは、恋愛的な意味で人を好きになったことがないのと、根本を同じくする問題である気がします。
自分は何やっても楽しくない、つまらない人間なんだなって、25年も生きていればいい加減分かってしまったんです。
人並みにプライドがあれば、年収が11万だったなんて恥ずかしくて言えないでしょうし、もっとしゃかりきになって頑張れるのかなぁ……なんて、「ぼんやり」考えている時点で、やっぱり情熱がない。
勝ち組、負け組っていうのにも興味がない。
負け組どころか、初めから戦おうともしていないから、「不戦敗組」と言うべきでしょうね。
負け組以下の存在でも気にしない、気にできない……。
「欲がなくてすごい」と言う人もいるけれど、人間には欲が必要だと思います。
欲とは希望であり、原動力だから。生きているということだから。
もちろん、僕にだって欲はありますよ。
「自分には感情がない」とか、25歳にもなってそんな中二みたいなことを言うつもりもありません。
ただ、人よりもそれらが希薄で、空虚なのだということを、最近しみじみ思うのです。
自分の中にも人並み程度にはありそうな自己顕示欲のことを考えてみると、結局、「僕の言葉や作品が役に立つという人がいるなら、その人に届いてほしい。そこまで届くだけの知名度がほしい」というだけのことであって、自分が褒められたいわけではそんなにないという事実に突き当たります。
冷たい言い方をすると、他人に期待していないんです。
自分の向上心と競争心のなさを自覚したのは、中学校に上がった頃のことです。
最初のテストで学年1位で、嬉しいというより「えっ、別に1位じゃなくていいのに」と困惑してしまって、様子を見ながら手を抜くようになって、最終的に10〜20位くらいで落ち着いていました。
1位から転落することへのプレッシャーを感じながら頑張り続けるより、傷つく前に自分から意図的に降りて、無理のないレベルでやっていくことを選んだ腑抜けというわけです。
周りの人はそんなこと気づきませんでしたけどね。成績や素行だけ見れば十分優等生だったので……。
母が担任の先生との面談で「家ではだらだらしてて……」みたいな話したら、「お母さん! あんなに素晴らしい子のどこが不満なんですか! あんなに素晴らしい子は他にいませんよ! そんなこと言ったらかわいそうです!」と鬼気迫る様相でなじられたとか……。(不憫)
何故か、むしろ「頑張り屋さん」と思われがちで。
だから誰にも矯正してもらえずに大人になってしまいました。
いや、自分で変わらなければいけなかったんですよね。甘えでした、すみません。
安きに流れては駄目だ。多少無理をしないと、人間は堕落していく一方なのだから――。
分かっていても、僕は頑張れないんです。
何故なら、僕には、本当はやりたいことなんてないから。
高校時代はいろんなことに手を出して、いくつもの部活や委員会に入って、全国大会に出たり、「校内一忙しい人」なんて呼ばれたりもしたけれど、実際には「青春を謳歌している高校生」を演じていただけだったような気がします。
何となく、少しは興味のあることに参加してみては、夢中になれるものを探す人生でした。
就職してみたり、退職してみたりというのも、その一環なのかも知れません。
でも結局、僕は何事にも情熱を持てないのだという現実が、襲い掛かってくるのです。
怖くても、戦いたくなくても、その現実からは逃げられないのです。
サラリーマンを辞めて1年。
認めたくないけれど、もしかしたら、僕は音楽を作ったり物語を書いたりすることすら、それほど好きなわけではないのかも知れません。
夢中になれるもののない人生の中で、ほんの少しだけでも楽しいと思えるだけで、他のことと比べれば一歩リードしてはいるのは確かです。
けれど、きっと僕にとって、創作は「手段」であって「目的」じゃないのです。
「目的」っていうのは、これですよ。
退職を決意したことをお知らせするツイートで言った時から変わりません。
僕が何故クリエイターになりたいと思うかというと、自分の見ている景色をどうにか人にも見える形に「表現」できれば、それを見た人の心の支えになるのではないか、それだけ美しい景色を、自分は見ているのではないかと思うからです。僕が表現しなければ、この景色は僕にしか見えないまま消えてしまう…
— 夢前黎@ゲーム制作・作曲・素材配布・哲学 (@Rei__Yumesaki) 2015年5月24日
昔は「萌えで世界中に幸せを届けたい」とも表現していましたね。
こうも言っています。
(私の創作活動のスタイルは)「考える」というより「思いつく」。「作る」というより「見つける」。私しか知らない絶景スポットにみんなを案内したい。その地図をどんな方法で書くかというのが、ゲームだったり小説だったり音楽だったりするわけです。 2015年11月27日 知人へのメールより
— 夢前 黎@BGM・SE・声の素材配布中! (@Rei_Yumesaki) 2015年12月12日
人を幸せにしたいと思う。
悲しい思いをする人が減ればいいと思う。
この世から一人さみしく自殺するようなことがなくなればいいと思う。
だから、僕が見ている/聞いている美しいものを、他の人にも届けたい。
こんな僕でも生きていられる、その理由を、共有したい。
虚しいのならば、その分そこに綺麗なものをいっぱい詰め込めばいい。
こんな僕でも生きていられるこの世界は、きっと美しくて優しいもので満ち溢れているに違いないのだから。
僕の中にはきらきらがないけど、だからこそ、外のきらきらがよく見えるのかも知れません。
僕は空虚な人間だけど、だからこそ、世界を丸ごと味わうように受け入れるスペースがあるのかも知れません。
僕はつまらない人間だけど、だからこそ、できることがあるのかも知れません。
そんな希望に冒されて、僕は今日も生きています。
でも、もしかしたら、僕の中では今まさに、変化が起きつつあるのかも知れないんです。
こんな記事を書いているのがその証拠です。
今まで、ここまで虚しさを感じて、恐れて、胸がしくしく痛むようなことはありませんでした。
そう考えると――嬉しい、んです。
だって、こんな風に悩んでいる僕は、今、とても人間らしいから。
きらきらが欲しいとないものねだりをして、さみしいと泣いてみたりして。
僕なんかが、そんな感情を、欲望を、一丁前に感じることができて。気づくことができて。
いっそめでたいような気すらします。
ここまで来るのに25年もかかりました。
25歳にして、ようやくさみしいと感じ始めたのだから、もしかしたらこれからどんどん、僕の中にきらきらが生まれてくるのかも知れない。
それは必ずしも心が温かくなるようなものばかりではなくて、眩く胸を焼き焦がすような、つらいものかも知れないけれど。
愛すること、愛されることを、これから学ぶことができるのかも知れない。
ないかも知れないけど!
もうどっちでもいい。
期待してがっかりしたくない。
きらきらがないといけないなんてことはないと信じているし。
だからどっちでもいいんです。
僕の心の中に何が生まれても、生まれなくても、僕は変わることなく世界を愛し続けると思います。それで十分です。
ああ、やっぱり、好きだなぁ。
僕はこの世界が好きだ。
よし、明日からも頑張るぞ!
2017.01.05 追記
今はもう、さみしいとか虚しいとか思わなくなってきました。
「慣れた」「悩むのにも飽きた」といったところです。
うーん、やっぱり僕はこういうやつなんだなぁ。
悩んでいても、最終的には「最悪でも自分一人が死ぬだけじゃん、大したことない」で落ち着くというか。
この記事を書いた時は、一人で孤独に死んでいく未来が悲しくて仕方がなかったのに、今はもう、その運命を受け入れて穏やかな気持ちになってしまいました。
せっかく人間らしく悩めていたのに……と名残惜しい気持ちもありますが、仕方ないですね(笑)
これも個性と思って頑張ります。
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